外交をWIKIで調べてみました。


外交
また外交という言葉は外国との交際に関わるさまざまな政治的活動の総称であるが、その内容には二つの意味に大きく分類することができると考えられている。ハロルド・ニコルソンの『外交』によれば、それは「外交交渉」という技術的側面と、「外交政策」という政治的側面である。外交という言葉は両者の全く性質が異なる概念を包括しており、使い分けられるべきものである。
今日、外交とは国家間の政府外交のみならず民間外交、議員外交、あるいは非政府組織 NGOなどによるトラックII外交など、多様な主体が行う国際交流ないし交渉をさす。
ただし、そもそも外交とは、国家が国益の最大化を図るために行う諸活動のことを指すものであり、国際社会一般、あるいは国際法において正当な外交の主体とは国家であり、すなわち具体的にはその国を代表する政府が担うことを基本としている。

外交官
外交官(がいこうかん)とは、国家を代表して、外国に派遣され、あるいは駐在して、外国との交渉や交際を行う国家公務員のこと。
外交官の仕事としては、相手国の情報を収集して本省に報告すること、相手国との協議や交渉、そのための下準備、相手国が主催する行事に参加するなどして両国の友好を深めることなどがある。その拠点となるのは大使館、総領事館などの在外公館である。
外交官の種類は国際慣習法上一定の原則があり、日本もこれに則って外交官の名称を「外務省設置法」、「外務公務員法」(昭和27年法律第41号)及び「外務職員の公の名称に関する省令」(昭和27年外務省令第7号)により次の通り定めている。但し、参事官〜在外公館警備対策官については、外務大臣が「公の便宜のために必要があると認める場合には、国際慣行に従い、第二条及び第三条に掲げる公の名称の一又は二以上を用いることを命ずることができる」ものであり、戦前は官名であったが現在は正式の官名あるいは職名ではない(正式の官名は外務事務官)。その為、外国に赴任して大使、公使、総領事、参事官等になった者も、国内に戻ると大使、公使、総領事、参事官ではなくなるが、儀礼的にこれらの職名で呼ばれる場合がある。

外交政策
国家にとって生存、平和、繁栄、独立を求めることは当然であるが、その国内、国外情勢はさまざまである。すなわちそれぞれの国家にそれぞれの適切な国家戦略があると考えられる。その国家戦略を達成するための対外的な戦略が外交戦略であたり、その外交戦略を実際に実現するのが外交政策である。外交政策はその安全保障や国際経済の環境を改善し、緊急事態においては危機管理を行う。
抑止政策(deterrence policy)とは安全保障において、優れた軍事力を維持することにより、戦争を起こして期待できる戦果がコストとリスクを上回ることがないと相手に判断させ、そのことにより戦争を回避する外交政策である。しかし、この抑止をより確実に成功させるためには外交的アプローチが欠かせない。なぜなら相手に攻撃するコストとリスクを認識させるためには、相手に確実に自分が断固として自国の国益を防衛する意思があることを伝える必要があるからである。ただし「本当に国益を防衛する意思」と「実際に国益を防衛する能力」の二つを備えなければ、上記の意思の伝達は有効性を持たない。

外交交渉
外交交渉(がいこうこうしょう)とは外交において実際に首相や外交官などの国家の代表が相手国の代表と対面して実施し、何らかの合意を取り付けるための交渉をさす。外交の最も根幹的な業務である。
外交交渉とは外交において国家の代表同士が対面して行う交渉である。政治的、軍事的、経済的に利害関係が二国間・多国間で対立もしくは相互作用する問題を武力ではなく交渉によって解決するために実施される。外交における最も根本的な業務であり、さまざまな問題と目的が複雑に絡み合う双方向的かつ相互作用的なコミュニケーションでもある。それゆえ、交渉にあたる代表には語学力、論理性、駆け引き、状況分析、利害計算、教養、マナー、人間性、責任感、忍耐力に優れていることが求められる。

外交革命
外交革命(がいこうかくめい、Umkehrung der Allianzen)とは、1750年代に起こったヨーロッパの同盟関係における重大な転換。具体的には、17世紀以来対立関係にあったハプスブルク家(ハプスブルク君主国 オーストリア)とブルボン家(フランス)が、協力関係に転じたことを指す。
1740年から1748年にかけてのオーストリア継承戦争で、オーストリア=ハプスブルク家は、新興のプロイセン王国 プロイセンに敗北してシレジア シュレジエン地方を喪失した。この敗北による衝撃は、これまでイタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争などを通じて抗争を続けてきたフランスより、主要な敵はプロイセンであるという認識を、当時のオーストリア宰相カウニッツなどに抱かせることになった。このことが、オーストリア=ハプスブルク家がフランス=ブルボン家へ接近を図る要因となった。このことが後にドイツ諸侯の失望を招き、ハプスブルク離れの遠因となるのである。

外交外交

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